精神科・心療内科・内科・神経科・心理カウンセリング・精神科デイナイトケアのことなら、「なかまクリニック」へ。 中嶋聡の著書紹介もしています。

 

 

HOME施設案内スタッフ著者紹介著書一覧

インフォームド・コンセントなんて必要ですか?

 

 最近では、なんでも説明責任と言われます。

 でも思い出してください。ほんの十数年前までは、「お医者さんにお任せします」というのが普通でした。

 また「胃癌」を「胃潰瘍」と説明するなどして、患者に少しでも余計な不安や負担をかけないようにしようとする、医師の葛藤と愛情がありました。

 それは、決してむげに否定されるべきものではないと思います。

 インフォームド・コンセントが一般化した今、改めて考えてみる価値はあるのではないでしょうか。

 興味のある方は、ぜひご一読ください。

(なお、前著「分裂病の実践知と治療」第二部第三章「分裂病治療におけるパターナリズムの必要性について」でも所論を展開しています。ぜひあわせてご覧ください。)

中嶋 聡著「ブルマーはなぜ消えたのか--セクハラと心の傷の文化を問う」から抜粋

 

第8章 インフォームド・コンセント

 

  医療において、インフォームド・コンセントという言葉が叫ばれるようになって久しい。

 ある時期までは、というのは今から約20年前、1985年くらいまでは、医者が患者に対して病気や治療法について説明するというのは、一般的ではなかった。

 もちろん多少は説明していたのだが、必ずしも真実を説明する必要はなく、必要に応じてごまかしたり、お茶を濁してもいいとされていた。

 原則的に、パターナリズム、すなわち治療法は医師が決め、患者はそれに黙って従っていればよいというのが一般的な考え方だった。

 

(中略)

 

 ところで、医療裁判の事例をみると、そのほとんどにおいて「医師の説明が不足していた」という言い分が出てくる。

 この言い分は、一見もっともにみえるが、実は重大な問題を孕んでいる。

 実際に説明が不足していたと単純に言えるケースもあるにはあるだろう。

 しかし、先に述べたように実際の臨床ではある程度省略を加えないと説明ができないことを考慮すると、保険証券に書かれている約款のように逐一すべてでない限りは、どこまで詳しく説明しようと、なお説明が不足していたと言われる余地は残るのである。

 さらに説明の仕方まで問題にされるのであれば、なおさらである。

 ところが反面、患者の方は疑問な点はとことん医師に質問したのかというと、どうもそうではないようである。

 訴訟記録をみると、ほとんどのケースでは、患者はあまりにもといっていいほど受け身であり、医師の説明を「受け取る」だけであったようにみえる。

 日常臨床における私の印象から言っても、患者の姿勢は一般的に言って大体そのようなものである。

 自己決定の原則からすれば、必要な質問を選び、また行うことは、患者の権利であり、また自らの責任でもあるはずなのにである。

 また、自分から医師に詳しい説明を求め、いろいろ質問してくる人であっても、それらの説明や答えをもとに自分で判断しようという姿勢を持っているようには思えない人が多い。

 疾患について詳しく説明し、治療法や薬についての選択肢も呈示して、「ではどうしますか」と問いかけると−−医師としては「当然のこと」をしているはずだし、またそれが患者の求めでもあったはずなのだが−−途方に暮れてしまったり、「薬は出してほしいが、副作用があるのでは困る」とか「(勧められた通り薬をのんで)早くよくなりたいが、でも薬には頼りたくない」といった二律背反の前に堂々巡りして、結局自分では決められず、どこかで医師が助け船を出さざるをえないという人が多い。

 Aを選べばA’というリスクがあり、Bを選べばB’というリスクがある。

 Aを選ぶということはすなわち{AA’}を選ぶということであり、同時にそれはBを断念するということでもあるのだが、「AはいいがA’は困る」とか「AもBもほしい。なんとかできないか」と訴える人が多いのである。

 しかも、そのように詳しく質問する動機は、自分が正しく判断するために多くの材料を集めようとするというよりは、むしろ漠然とした不安からという場合が大半であるようにみえる。

 私はこのことは、患者の側が、ということは要するに世の中の人々が、自己決定の原則ということを主張し、また裁判ともなれば重要な論拠として持ち出すけれども、実は多くの場合その意味するところを十分には理解しておらず、また本音としてはあまり望んでさえいないということを示しているのではないかと思うのである。

 「自分の体のことだから自分で決めたい」「自分で治療法を選びたい」と言いながら、多くの場合、そう言うからにはそれに伴う責任やリスクを自らが引き受けることになるのだという自覚は、持っていないのではないかと思う。

 医療裁判の事例に引きつけて言えば、本音としては、医師に頼り、助けてもらいたかった。

 別に自分で治療法を選びたかったと強く願っていたわけではなく、医師に最善の方法を決めてもらえ、治療がうまく行けば、それでよかった。

 しかしそれが残念ながら叶わなかった事態を受けて、今度は近代市民社会の論理を持ち出し、闘っている。そんな風に思えるのである。

 

(中略)

 

  実際には、内容が専門的であると、自分でいろいろ調べてみても、断片的な知識の寄せ集め以上の理解に達することはなかなか難しいのではないかと思う。

 また、自分で質問事項を準備して医師に詳しく聞いたとしても、答えの意味をよく理解できないことも多いだろう。

 その結果、自分ではなかなか正しい判断を下せない場合が多いのではないかと私は想像する。

 それでも自分が判断することが重要なのだ、たとえその判断が客観的に見れば−−たとえば専門家の立場から見れば−−愚かなものであっても、それでよいのだ、というのが自己決定権の考え方である。

 昔の日本には、伝統的に、このような考え方はなかった。

 社会の欧米化に伴って、この20年位の間に急速に広まってきたものである。

 この考え方は、一見もっともらしいが、しかし間違っているのではないだろうか。

 世の中、自分で決められることもあるが、反面人にお任せした方がいいこともある。

 中途半端な説明をいくら聞いてもわからないし、結局正しい判断を下すことはできない。

 日本人は伝統的に、このようなとき、頭を下げて、「お任せします」と言っていた。

 そしてその結果が自分の望まないようなものに終わっても、多くの場合、結局は最善の選択をしたのだ、自分よりはるかにその分野についてよくわかった人にお任せしたのであり、その人もできるだけのことをしたのだからと、自らを納得させてきた。

 このような態度は、偉大な英知ではないだろうか。

 人々は、事柄が難しくなればなるほど、自分だけで物事が完結しないことを知っており、それをうまく解決するような集団的なシステムに身を委ねていたのである。

 もちろんすべてがすべて善意の人ばかりではないから、問題は起こるのであろう。

 場合によっては、自己決定を原則とする社会では考えられないような理不尽な仕方で問題が起こり、それが理不尽な仕方で処理されるということもありえたであろう。

 しかし反面、自分がすべてに関与していない分、諦めることをより容易にするシステムでもあった。「仕方がなかったのだ」と思えることは、必ずしも悪いことばかりではない。

 

(後略)

 

 

前のページへ 目次・購入ページへ 次のページへ