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人権と偏見について

 

 人権という言葉に、なにか違和感を覚えたことはありませんか?

「人権を尊重すべきだ」などと言われると、あまりにもまっとうな主張で、反論の余地などないように感じてしまいます。しかしそれは、どこまで絶対的なものなのでしょうか。

  いたずらをする子供を、罰としてしばらく廊下に立たせることは、本当に子供の人権を侵害する行為なのでしょうか。

  大学入試の合格発表で、合格者の氏名を貼り出すのは、本当に人権を侵害する営みなのでしょうか。私にとっては、そこに自分の名前をみつけたのは、生涯忘れない瞬間の一つなのですが。

  偏見という言葉にも、注意して吟味する余地がありそうです。

  公園で浮浪者を見て、「なにかいやだな。近づきたくないな」と思うことは偏見ですか? むしろそれは、人間が普遍的に持つ、ものの感じ方にすぎないのではないでしょうか。そして本当の偏見というのは、もっとその先にある何物かなのではないでしょうか。

  そのような問題意識から、この本を書きました。興味のある方は、ぜひご一読ください。

(なお、前著「分裂病の実践知と治療」第二部第五章「偏見について」でも所論を展開しています。ぜひあわせてご覧ください。)

中嶋 聡著「ブルマーはなぜ消えたのか--セクハラと心の傷の文化を問う」から抜粋

 

第3章 人権と偏見について


I.

 最近、人権という言葉が各方面でかまびすしい。精神医療の領域ではとくにそうである。

 しかし私は、人権という言葉が言われ出してからずっとそうだが、どうもこの言葉は好きになれない。

 なんとなく、違和感があるのだ。その理由について、一寸考えてみたい。

 人権という言葉は、まず、われわれの生活感覚に根ざしていない言葉である。

 われわれの日常生活の中で、ふだんから、「人間には固有の権利がある。それをお互いに守らなくてはいけない」といった気持ちが潜在的にあって、それが結実して人権という言葉なり、考え方が出てきたのではない感じがする。

 むしろ外来語のように、法律用語の中から、あるいは先進諸外国−−というのはアメリカや西ヨーロッパ諸国のこと−−ではこのようにしているという指摘−−それは日本人自身によることもあるし、外国やWHOなどの国際機関によることもある−−の中から、ポンと飛び出してきた言葉のような感じがする。

 実際、論文や新聞などにさかんに出てくる割には、われわれは日常の会話の中ではほとんど使わないのではないだろうか。

 専門家同士の会話でも、人権といきなり言われると、私などなにか特別の話でも出てくるのではないかと思い、身構えてしまう。

 第二に、人権という言葉には、何か押しつけがましいところがある。

 人権は、「ある」という言い方がされる。

 私の考えでは、本当は、人権という考え方がある、というべきなのだ。

 人権といえども、人間がこれまで生み出してきた幾多の社会思想の一つにすぎないのだし、また、人間というものについてのある一つの見方を反映するものにすぎないのだ。

 ところが、人権そのものがある、と言われるので、人権などない、と言うことや、あるいはそこまで行かなくても、人権の内容について部分的にせよ疑問を呈したりすることは、あるものにケチをつけるのだから、地球はないと言っているのと同じで、論理的に言ってはじめから問題にならない、と言うことになってしまう。

 何だか、水戸黄門に「この印籠が目に入らぬか」と言われるような感じである。

 考え方としてとらえれば、いろいろ批判や議論は可能であろう。

 しかし「ある、ない」というカテゴリーでのとらえ方であるから、その内容についての吟味抜きに、ともかくひたすら(「ある」とされる)人権を守らなくてはならない、といった感じで、社会(の一部)が必死になっているような趣である。

 

(中略)

 

II.

 一般に、分裂病者を「気の違った人」とか「おかしい人」とみなすことが、分裂病者に対する偏見であると思われている。しかし私は、これを偏見とは考えない。

 

(中略)

 

 私は、精神保健法の下でのさまざまな啓蒙活動にもかかわらず、一般の人々のこうした認識の仕方が特に変化したとは思わない。確かに、分裂病者を「気違い」とあからさまに呼んだり、分裂病とわかったからといっていきなり解雇されるといったことは少なくなった。

 しかしこれらのことは、決して、一般の人々の本音の感じ方が変わったことを意味しないと私は思う。

 そのことは、次のことを考えてみるだけで明らかであろう。

 たとえば病院付近のマンションの広告に、どうして進学校のS校や文化施設のCセンターは大きくのっているのに、T病院(注:私が以前勤めていた沖縄県内の精神科病院)はいつも地図から抜け落ちているのか?。

 人の心の中を直接覗いてみるわけにはいかないから、人々の本音がどうなっているのか、ほんとうのところはわからない。

 しかしおそらく、日頃の印象から私が推測するには、中心的な部分は変わっていず、ただあまり本当の気持ちをそのまま口にすると不躾だと思われるし、またマスコミや世の「人権派」がうるさいから黙っておく、または適当にきれいごとを言っておく、まあそんなところではないかと思う。

 良く言えば、人々は礼儀正しくなった。

 しかし感じ方そのものが変わったわけではおそらくないであろう。

 おそらくはいにしえ以来の生活感覚が一方であるのだ。

 お仕着せの用語や説明をいくら聞かされたからといって、本心からそれを信じるであろうか。

 せいぜい、信じたふりをするだけであろう。
 私は、分裂病者に対する偏見とは、彼らを「気の違った人」とか「おかしい人」と感じたり、あるいはみなすことではないと思う。

 むしろ、彼らが「気の違った人」とか「おかしい人」であるという理由で、人に対してふだんなら当然するような関わりの仕方をしなくてもよいと思うことが、偏見なのではないだろうか。

 

(中略)

 

 だとすれば、最近のさまざまな啓蒙活動の多く、あるいは「気違い」などの言葉をいろいろとソフトに言い換える努力は、偏見を克服するという意味では、逆向きの努力ではないかと私には思われる。

 

 

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